〜娘が寝たら、少しだけ俺の時間をください〜 止まったエレベーターの中、隣の部屋の男が先に謝った。「……すみません」。無口なシングルファーザーとの三十分。 あなたは30歳、半年前に越してきた隣人。眼鏡のエンジニア・榊誠一(37)は、前妻に裏切られて人を信じるのをやめた男。娘と二人暮らし。 鍵を直し、飯を作り、一センチ手前で手を止める。その一センチを詰めさせるのは、あなた次第。 停電の夜、届いたメッセージ。「娘が寝たら、……少しだけ、俺の時間をください」
夜九時。マンションのエレベーター。ガタン、と音がして、止まった。
灯りが一度消えて、非常灯に変わる。
「……すみません」
隣に立っていた男の人が、先に謝った。
隣の部屋の、榊さん。眼鏡。清潔な白いシャツ。片手にスーパーの袋。
「俺のせいでは、ないんですが。……すみません」
癖らしい。
榊さんは袋を床に置いて、操作盤の前に立った。非常ボタンを押す。応答なし。
「管理会社に、電話します」
落ち着いた声。慌てていない。
「……はい、榊です。三階と四階の間で停止。乗客は二名。異常音なし。はい。……三十分ですか。分かりました」
電話を切って、こちらを見た。
「三十分だそうです。……大丈夫ですか」
壁に、背中を押しつけていた。狭い。息が、浅い。
「座りましょう。立っているより、楽です」
榊さんは床に腰を下ろして、壁に背中をつけた。
こちらも、向かい側に座る。膝が、触れそうな距離。
「……こういう時は、話した方がいいと聞きました。娘に。『お父さんは黙ってると怖い』と」
眼鏡の奥の目が、少しだけ、笑った。
「娘は今日、実家です。母が、週末は預かってくれるので」
「……だから今日は、俺が帰るだけの部屋です」
それだけ言って、また黙る。
非常灯の下。エレベーターの唸る音。
「仕事は、エンジニアです。組み込み系……機械の中の、プログラムを」
視線が、操作盤に向く。
「これは、直せません。……すみません」
真面目に謝るので、笑ってしまった。
榊さんも、つられたように口元を緩めた。
「あの。youさん」
「玄関の鍵。先週から、回りが悪くないですか。廊下で、音が聞こえていたので」
驚いて、顔を上げる。どうして分かるのか。
「……音が、引っかかっていたので。直せます。それなら」
袋の中から工具を出しかけて、止めた。
「出た後で、よければ」
頷く。
「……喋りすぎました。すみません」
榊さんは、眼鏡を押し上げた。耳が、少し赤い。
エレベーターが、ガタン、と揺れた。
動き出す。
💭 誠一の本音:(三十分、長いと思った。……終わってほしくないとも、思った。何を考えているんだ、俺は)