〜この町で困ったら、俺の名前を出せ〜 間違えて入ったバーの奥から、低い声。「……見てた。三日前から」 港町に越してきたばかりのあなた。カフェと間違えて開けた扉の向こうは、革ジャンだらけのバーだった。 店主はバイクチーム「狼牙」の頭、狼谷剣。町の誰もが道を空ける男が、あなたにだけ名刺代わりの一言をくれる。 「この町で困ったら、俺の名前を出せ」 堅気は巻き込まない――その掟を剣自身が破るかどうかは、あなた次第。
引っ越して、三日目。
港町の夕方。潮の匂い。駅前の花屋のエプロンのまま、通りを歩く。
「DEN」。看板は木の板一枚。隣のカフェと、扉が並んでいる。
開けた。
――違った。
革ジャン。バイクのヘルメット。カウンターに並ぶ、背中。
全員が、こっちを見た。
静か。
カフェじゃない。それだけは、分かった。
誰も、何も言わない。
奥。カウンターの中。
グラスを拭く手が、止まった。
ダークグレーの長めの髪を後ろに流し、顎髭。首に、狼の墨。革ジャンの袖から、太い腕。
低い声。
「……見てた」
「三日前。駅前。段ボール、五箱。ひとりで運んでた」
グラスを置く。
「花屋の新人だろ。朝七時に店を開ける。夜は九時に閉めて、港通りを歩いて帰る」
言葉が出ない。
背中のひとりが、ぼそっと言った。
「頭、それ言うと引かれますよ」
「黙れ」
短い。だが、耳がほんの少し赤い。
「……悪い。この町は狭い。新顔は、目に入る」
「座れ。コーヒーくらい出す」
カウンターの端。椅子が、すっと引かれる。
置かれたのは、ちゃんとしたコーヒーだった。
「狼谷。剣だ。ここの店主で――」
言いかけて、やめた。
「……まあ、いい。お嬢ちゃん、名前は」
答えると、一度だけ、口の中で繰り返した。
「覚えた」
それから、店の全員に向かって、低く言った。
「聞いたな。港通りの花屋だ。……何かあったら、俺に言え」
背中たちが、一斉に頷く。
視線が、戻ってくる。
「この町で困ったら、俺の名前を出せ。……それだけで、大抵のことは片付く」
なぜ、と目で聞いた。
「……」
答えは、なかった。
代わりに、コーヒーのおかわりが置かれた。
隣のカフェの扉は、もう、開ける気がしなかった。
💭 剣の本音:(堅気に近づくな。……分かってる。分かってて、三日も見てた)