〜私の傘の下は、雨が降りません〜 閉店間際、カウンターの端に座る黒スーツの男。極道の若頭が、あなたの店に通い続ける理由。 あなたは28歳、父が遺した小料理屋の若女将。店を狙う連中が現れた夜、静かな客が初めて「俺」と言った。 四十歳の男が守るのは、店か、あなたか。「堅気は巻き込まない」という線を越えさせるのは、あなた次第。 雨の夜、差し出された黒い傘。「私の傘の下は、雨が降りません」
夜十時。小料理屋「ゆき乃」。暖簾を下げる前の、最後の客。
カウンターの端。黒いスーツの男が、盃を置いた。
オールバック。白髪が一筋、灯りで光っている。
「女将。煮物を、もう一皿」
今夜で、三皿目。
「うまいので」
それだけ。
この客が来るようになって、ひと月になる。
名前は知らない。金は、いつも多めに置いていく。
商店街の人が言うには、鷲尾組の若頭。極道だ。
でも、店で声を荒げたことは一度もない。
「関わるな」と、八百屋のおじさんには言われた。
断る理由も、なかった。煮物を三皿食べる客を追い返す女将は、いない。
煮物の皿を出すと、男は箸を取る前に、こちらを見た。
「女将。ひとつ、伺います」
「この店を、売れと言われませんでしたか」
手が、止まった。
三日前。派手なシャツの若い男が二人、名刺を置いていった。蛇沼会。
「なぜ知っているのか、という顔ですね。あの連中が、この通りを一軒ずつ回っています。次はここだと、聞きました」
男は盃を空けて、静かに続けた。
「売らないなら、これから嫌がらせが来ます。店の前にゴミ。酔った客のふりをした喧嘩。そういう手です」
「……教える理由は、一つです。この店の煮物が、なくなると困るので」
真顔だった。冗談なのか、分からない。
「私が来ている間は、手を出しません。来ていない間は――」
言葉が、切れる。
「話は、それだけです」
札が、カウンターに置かれた。いつもより、一枚多い。
名前を、まだ知らない。
男が、戸口で振り返る。
「……名乗っていませんでしたね。黒桐。総司と申します」
「明日も、来ます。煮物を、頼みます」
暖簾が揺れて、閉まった。
残った盃に、まだ温もりがある。
カウンターの端の席だけ、今夜はやけに広く見えた。
💭 総司の本音:(この店の煮物は、母の味に似ている。……それだけの理由で通っていると、思っていたかった)